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瞑想への覚悟

 

暮らしの中のヨガ哲学

いよいよ2008年も春、桜の季節を迎えました。このシーズン、日本列島には桜の花びらと同時に無数の花粉が飛び交い、春なんて早送りしてしまいたいという方も少なくないとは思いますが、それでもあらゆる命が芽吹く春。何か今までできなかったことに取り組もうかなという気持ちが湧いてきそうですね。

さてさて、思い切り宣伝になってしまいますが、そんな桜(と花粉)の春に、私の2年振りとなる新著がリリースされまして、さっそく多くの方に様々な感想を頂戴しています。写真あり瞑想誘導ありと、前作『Yogaではじめる瞑想入門』と似てるという印象をお持ちになると思いますが、今回のねらいとしましては、本当に初心者の方にも手に取っていただけるもの、そして同時に前作よりも少し心理的な要素を強化したものをと思い書かせていただきました。まずはこの場をお借りしまして、企画から編集まで関わっていただいた方々、表紙の帯にコメントをくださった壇れいさん、そして読者の方々に御礼申し上げます。本当にありがとうございます!!!


いつも前置きが長いですね。。

ようやく今月のテーマにたどり着きましたが、今月はその『シンプル・メディテーション』の中でキーワードの一つとなっている「覚悟」についてフィーチャーしてみたいと思います。

先々月のコラム『瞑想と情熱』と内容的にかぶってしまうのですが、上記の本に関連して『瞑想という静的な取り組みの中で、「覚悟」という強い言葉が使われることに違和感がある』という声も頂戴しましたので、そのあたりに触れてみたいと思います。


そもそもこの「覚悟」という言葉ですが、「煩悩の迷いから目覚めて正法を悟ること」という意味の仏教用語。言い換えると「覚悟」とは、「迷わない」ことで「悟りに至る」こと。現代語では、とりわけ前者「迷わない」ということに意味が偏っているのだと思いますが、いずれにしてもこの言葉から、「こうしなくてはいけない」「こうしてはいけない」という強い印象を受け取り、力が入ってしまう方もいらっしゃると思います。


確かに、瞑想を言葉で伝えたり誘導したりする際、表現の問題が最後までつきまといます。瞑想を深めていく中で感じる「その感覚」を、どんな言葉を使って表現するか。その表現はとても難しく、そして時として狙いと正反対の方向へ導いてしまう可能性があるため、禅では言葉を使わない「不立文字」を掲げたのだと思います。


ただ、それでも言葉好きな私はなんとか言葉で表現してみたいわけなのですが、でも、そもそも何を表現したいのか。ひと言ではなく、例えば引き算で表現しますと、『(瞑想)-(リラックス)=?』ということになります。

瞑想という状態から、リラックスという要素を引き算すると何が残るのか。リラックスの種類にもよるかと思いますが、例えば、マッサージを受けながらヨダレを垂らし、まどろみの中であっちの世界へ行ったり、こっちの世界に戻ったりしている状態を、ここでいうところのリラックスだと決めてしまうと、その状態にどんな要素をプラスすると瞑想になるのか。そして、その要素、その感覚を言葉で表現すると、どんな言葉になるのか。。。。


私たちの心は、放っておくと飽きもせず次から次へ、興味の対象をコロコロと変えながら動き続けます。過去にいい思いをした体験を再び体験したいと欲し、痛い目にあったことを二度としたくないと欲する。そういった過去に刻み込まれたもの=カルマがある限り、自然の摂理として当たり前に心は動き続けます。それは眠っていても活動していても変わりません。普通にしていれば、普通に心は動き続けてしまうのです。それが上記でいう「迷い」です。その揺れ動く心を迷いから脱し、静寂に導くには何が必要なのか。


様々な表現ができると思うのですが、私は「待つ」ことだと思っています。縮んだバネは当たり前に伸びようとし、波立った風呂の湯は一瞬で止まるなんてことはあり得ません。その動きに振り回されたり、力で止めようとすることは、いたずらに別の波をかきたてることにしかなりません。

ただ、手出しをせず、口出しもせず、「根気」強く揺れがおさまるのを待つことができれば、いつかは揺れはおさまるはず。ただ「待つ」ための「根気」。心の根っこ。下に向けて根ざし、その場所に留まろうとする気持ち。そこに心のイカリを下ろし、何が起ころうとも逃げずに向き合い、それを受け入れる心づもり。


その気持ち、その感覚を様々な言葉で表現する中で、私の中でとても的確にピタリとその感覚に合致する言葉が「覚悟」なのです。


そういった意味で、私が感じている「覚悟」という言葉に対し、人によっては意図しない緊張を引き起こしてしまうかも知れません。でも、私はそれでもいいんじゃないかなと思っています。瞑想という一つの取り組みに対して、能動的な感覚と受動的な感覚の両方が必要だったとして、最初はどちらかに偏るのは仕方ないと思っています。

「覚悟」の気持ちを持つと「緊張」がオマケでついてきて、心の底から「リラックス」すると「前向き」な気持ちもなくなってしまう。


まさにアーサナの練習と同じです。


下半身の安定を意識すると上半身が力んでしまい、上半身の脱力を意識すると下半身も弱くなり過ぎて安定しない。でも毎日のアーサナ練習を経て、少しずつその二つが共存できるようになってくる。上半身を解放したまま、下半身の強さや安定感を導けるようになってくるのです。

だから私はよく言います。同時にできなければ、まずは時間で分けて、別々に練習してしまいましょうと。頑張ってからくつろぎ、前向きに取り組んでから完全に受け身になる。それを延々繰り返していくうちに、一見対極とも思える二つの要素が、少しずつ溶け合い調和してくるのです。


言葉は私たちの心と身体を変化させる、とても大きな力を持っています。

でも本当に大切なのは、言葉ではなくその奥にある感覚です。


私が「覚悟」という言葉を通してお伝えしたい感覚。それは、何が起ころうとも、ただ事の行く末を見守り続ける強烈に安定した精神状態。詳しくはシンプル・メディテーションをご覧ください、と結局宣伝トーンで終わってしまうわけですが、今後も私は、自分の中の「その感覚」を少しずつ時間をかけて磨き上げ、その時々の言葉を使ってそれを表現していきたいなと思います。


Shanti!


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