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調和と止滅

 

暮らしの中のヨガ哲学

北京オリンピックも何とか無事に閉幕し、暑さは和らげど蒸し暑い感じの残暑が続いていますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

私の方はお盆に家族でキャンプに行ってきまして、久しぶりに酸素らしい酸素を補給して参りました(笑)。

また今日新聞を読んでおりましたら、何やら今インドでは、フィットネス的な色彩が濃い欧米的なヨーガが逆輸入されブームになっているような記事があり、クスっと笑ってしまいました。筆者である哲学研究家の先生は、何とも複雑な心境であると述べていらっしゃいましたが、私は逆で、あらゆるものを受け入れる器を持つインドと言う国の懐の深さに、思わずニヤリとせずにはいられませんでした。


そんな懐の深さ故に入り組んでしまったのでしょうか。ヨーガ哲学の理解を複雑にしてしまっている二つの哲学、一元論と二元論について、今月はそれらの主題である「調和」と「止滅」をテーマに、何とか分かりやすくという気持ちで解説していきたいと思います。

ということで、いきなり皆さんに質問です。


ヨーガとは、一体何を目指すものでしょうか。


ヨーガが目指す究極のゴールとは何なのか。

ヨーガを行う目的は人それぞれだとは思いますが、ヨーガそのものは本来、何を目指して生み出されたものなのでしょうか。


実はこの答え、ひとつではないのです。

多くの指導者は、あまりこの事実について触れませんが、ヨーガは大きく分けて、二種類のゴールを持っているのです。

それが今回のテーマである「調和」と「止滅」です。


いまの今、思い切り二種類と書きましたが、これは哲学という学問上の話しでして、一見真逆とも言えるこの二種類のゴール、私自身の中では表裏一体、つまり同じ状態の裏表だと思っていまして、このあたりが今回のポイントになります。


ヨーガ哲学を支える二大哲学。

これまでも何度か触れてきましたが、それがハタヨーガのベースであるヴェーダ哲学(一元論)、そしてラージャヨーガのベースであるサーンキャ哲学(二元論)です。


前者はハタヨーガですから、ご存知身体をぐにゃぐにゃと動かし、様々なアーサナを行うタイプのヨーガです。

このベースにある哲学は一元論で、自分も他人もあらゆるものは、たった一つのもの(エネルギー)からできていて、自分とは宇宙という全体の中の一部に過ぎないという考え方です。ヨーガを行うことで、全体の一部であるという感覚を取り戻し、周囲との完全なる「調和」を取り戻そうとします。

この「万物との調和」がこのタイプのヨーガのゴールなのです。


一方、後者はラージャヨーガ、つまりヨーガスートラで解説されている瞑想ヨーガのこと。ヨーガスートラの時代には、まだアクロバティックなポーズは存在せず、純粋に姿勢を正して坐し、呼吸を調えて瞑想を深めるというタイプのヨーガが紹介されています。

このヨーガでは、上記の一元論のように、心や身体を含む、あらゆる現象や存在はたった一つのもの(エネルギー)からできていることを認めつつも、それらの現象をただ見守る純粋な精神(精神原理)が存在すると考えます。その純粋な精神は、心や身体や物質などとは完全に相容れない、完全に独立した存在であるという考え方から、二元論と呼ばれています。

この二元論であるヨーガスートラでは、心の働きを「止滅」させることによって、その純粋な精神を体験することができると教えます。この「止滅」によって、汚れた俗世から逃れることができるというのが、このタイプのヨーガのゴールなのです。


ただでさえも理解が難しいこのような哲学なのですが、それ以上に、これら二つの理論が五目御飯のようにごちゃまぜにされて解説されることが多いので、私たちがヨーガ哲学を学んでいくと、当たり前のように混乱してしまうわけです。


自分を周囲とを「調和」させようとするハタヨーガの哲学。

自分だと思っているものを一度「止滅」させようとするラージャヨーガの哲学。


前者は肯定的、後者は否定的とも言える哲学ですが、私としては両者は同じ哲学の表裏だと理解しています。


それまで「自分」だと思っていたものが「自分ではない」ことに気づくこと。この最も大切なポイントで、二つの哲学は完全に合致しているのです。


それに気づくために、スートラでは心の働きを「止滅」してみなさいと教えます。普段「自分」だと思っている身体の感覚や心の働きを完全に停止させたとき、それでも残る自分を体験する。その純粋意識とも言える存在が自分であることに気づいたとき、私たちはそれまでの「自分」という感覚を修正し、皮膚の内側の世界に重きを置かなくなります。

その結果、セルフィッシュな感覚がなくなり、周囲と「調和」することができるようになるのです。

そして「調和」の感覚でもって生きていくことで、日常から煩いや苦悩がなくなり、さらに深い「止滅」状態を体験できるようになる。その体験が、より深くエゴを薄れさせ「調和」の感覚を深める。


このように「止滅」と「調和」は、たがいに深め合う関係にあり、どちらの哲学が学問的に正しかではなく、共にヨーガが目指す境地に導く大切な指標となるわけです。

どちらが真の哲学かなんてことはどうでも良くて、そんなことに対するこだわりすらない、ひょっとするとどちらも正しいと感じる境地に誘ってくれるようなゴールであるように思うのです。


少なくとも東洋では、概して皮膚の内側と外側に区別を見出しません。

そこで境界線を引くことこそが、あらゆる苦痛の元凶であると教えるのです。

そして、そういった意味では、一元論と二元論は完全に合致しているわけです。


皮膚の内側といった狭い範囲に自己を見出すことは、例えるならば人体で言う胃袋などがエゴを持ち始めるようなこと。全体の中で一部に過ぎない存在が、我がために他の器官を犠牲にしたり、傷つけたりすることは、全体を見ればまったくもって馬鹿馬鹿しい構図。私たちが皮膚の内側のみに自己を見出すとは、胃袋が持つエゴと同じ。


だからスートラでは、心の働きを「止滅」することでそれに気づくと教え、ハタヨーガでは、周囲と「調和」する感覚を練習するわけです。


一見正反対に思える両理論も、その本質を読み解いていくと、その奥底には極めて共通する境地が広がっているものなんですね。


みんなでその感覚、深めていけるといいですね。


Shantiです!


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