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綿本ヨーガスタジオ提供 YOGA.jp - ヨガ・瞑想を知るホームページ

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暮らしの中のヨガ哲学

気がつけば、今年も残すところあと3ヶ月。

すっかりこの季節の風物詩となったヨガフェスタも幕を閉じ、深まり行く秋の気配を感じながら、来年はどう予定を入れようかな。。。などと思い描いたりしている今日この頃、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

まずはそのフェスタですが、参加していただいた方、ボランティアで運営を手伝ってくださった方に、この場をお借りして改めて御礼申し上げたいと思います!

また、綿本の普段着=「ドクロ柄の黄色のTシャツに皮ジャン」と勘違いをされた方に、この場をお借りして、あれはRock’n Roll Power Yogaの衣装ですとお伝え申し上げたいと思います。

といっても、普段着る機会があるから持っているわけなのですが、たとえばYOGINI Vol.5でダイヤモンドヘッドを背景にWarriorIIをとっているTシャツの裏が実はドクロ柄だったのですが。。。


それはさておきまして、そしてそれとは何の関係もなく、今月は「分」というテーマにフォーカスしていきたいと思っています。


近ごろ私は方々で「分」という言葉を多用するのですが、そのお話しをするごとに「分」という言葉の深みを噛み締め、この境地こそまさにヨーガそのものだなぁとしみじみと味わっています。


ということで、毎度ながらまずは辞書で「分」を引いてみることにしました。すると、それはもう色々な意味が出てくるわけなのですが、その中でもYoga的に目を引く意味が3つありました。


・全体を分けた一部
・備え持った能力の程度
・つとめ


の3つです。


かなり一元論的なお話しになってしまいますが、ヨーガでは「私」というものは、「宇宙」という全体の一部であると教えます。


多くの人の一般的な感覚では、私たちは宇宙の中に存在し、宇宙の中で生きているのであって、宇宙の一部という感覚はありません。

ただヨーガでは、宇宙というのは例えれば空に浮かぶ雲のように、ふわふわと絶え間なく移ろう存在、または悠々と流れる大河のような存在であり、それを全体とするならば「私」というのは雲の端切れ、あるいは五木寛之さん風に言うならば大河の一滴ということになります。


ですから、この考えにもとづいて言えば、「私」という存在は宇宙の一部分、つまり「分」であると言えます。


多くの人は「私」と「私以外」を皮膚という境界線で分けて区別しているわけですが、ヨーガではその区別にあまり大きな意味を置かず、全体の中でその一部として「私」という存在を捉えているということです。


このニュアンスは、もう少し規模を小さくして例えると分かりやすいです。

例えば、私たちの身体全体を「全体」とするならば、胃袋という分、腸という分、血管という分など、多くの分に分けることができます。このとき、胃袋が私たちの身体の中に住んでいる、腸が身体の中で生きているという捉え方はしないはず。全体の中でバランスよく機能している各部分があるのであって、その1パーツだけを可愛がったり、他を犠牲にしてまで特定の部分に栄養を与えたりはしないはずです。

この人体における各臓器のように、ヨーガでは「私」という存在は、宇宙の中に「住んでいる」のではなく、宇宙の「一部分」であるという捉え方をするわけです。


話を進めましょう。

全体をスライスして部分にしていく。すると、その一切れ一切れ(表現悪いですが。。)には「備え持った能力の程度」というものが生じてきます。これが分の2つ目の意味です。

人体の例で言えば、胃袋には胃袋が持つ能力、腸には腸の能力、腕には腕の、脚には脚の能力の差が生まれます。

全体を部分に分けていくわけですから、様々な偏りが生じ、当然能力にも偏りというか差が生じるわけです。


ヨーガでは、私たち一人ひとりも同じであると考えます。

私たちは一人ひとり個性的であり、誰一人として同じ人は存在しません。例えDNAが同じ双子であったとしても、その一人ひとりは実に個性的で能力の差を持っています。それはもう毎日見ているので間違いはありません(笑)。

でも多くの人は他人を羨み、妬み、そして自分に嫌悪し、時として絶望します。


全体をスライスして部分があるわけですから、能力の差があって当然なのですが、その差にばかり心を奪われ、絶望してしまうことが多いのです。


全体の中の一部という発想の中では、この絶望感は実に無意味です。


腕が脚の頑丈さを羨んだり、脚が手の器用さを妬んだり、胃袋が腸の長さに引け目を感じたり。。。


私たちはみんな違います。間違いなく私たちは皆、違う能力を持って生まれてきているのです。

だからそれぞれの「つとめ」があるのではないでしょうか。

頑丈だから担えること、器用だから務まること、長いが故に為せること。

これが分という語が持つ3つ目の意味です。


全体の一部だから能力に差があり、差があるからこそ務めがある。


皆さんの個性、能力、そして「つとめ」は何ですか?


ヨーガでは「私」とは「宇宙」という全体の一部だと教えます。


ただ、いきなり宇宙という最も大きな単位を突きつけられると、ハイそうですかで終わってしまったり、だから何ですかと言い返したくなったり、今一つ「分」という感覚が実感できません。


でも「宇宙」の一部である地球、あるいは日本、もっと小さな単位で県や市、さらには会社、家族、サークル、チームといった身近な部分に分けてみるとどうでしょう。ちょうど胃袋が無数の細胞から構成されているように、私たちは部分のまた部分であると考えることができ、まずは自分が属している単位での「分」を実感してみると、少しピンとくるのではないでしょうか。


その自分が属する「全体」の「一部分」としての自分を自覚し、そして他の構成員(またもや表現悪いですが。。)とは違う、とても個性的な能力を自分は持っていて、だからこそ自分が為すべきこと「つとめ」がある。

個性や能力の違いは優劣ではなく、できることの違いであり、つとめの違い。
そう考えることで、自分自身を丸ごと受け入れ、そして自分とは違う相手を丸ごと受け入れ、そしてその中で何ができるのかなという姿勢で生きていくことができる。


日本語的に言うならば、そんな「分」をわきまえて生きることこそが、まさにヨーガが目指す境地であると思っています。


結論はとてもシンプル。


分をわきまえて生きること。


サウイウモノニ ワタシハナリタイ。


OM Shanti


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