本文の開始

綿本ヨーガスタジオ提供 YOGA.jp - ヨガ・瞑想を知るホームページ

綿本彰によるヨガ解説・瞑想解説。メディテーション、マインドフルネス、ヨガ哲学、インド哲学、理論解説、用語解説、無料情報提供ページです。

感謝

 

暮らしの中のヨガ哲学

すっかり日照時間が短くなり、秋と入れ替わりに冬の訪れを肌に感じる今日この頃。いかがお過ごしでしょうか。

私の方は、今月頭に Yoga Aid Japan に参加させていただきまして、非常に素敵な体験をさせていただきました。12名の講師が9回ずつ太陽礼拝を誘導し、2時間かけて108回の礼拝を行う(はずの)もので、私も自分の順番の少し前まで一緒に参加させていただきました。本当に1人1人の先生方のスタイル、空気感には個性があり、同じアーサナでもこうも違った印象を受けるものかと感動してしまいました。

そんな中でスローペース誘導な私は、持ち時間10分で結局3周程しか回すことができず、事前に主催者側から9回行うよりも個性重視と言われていたので、仕方なしと自分の中で割り切ってしまいました。当日参加いただいた方は300名。受講費用の全額は、難病を抱える子供たちなどへの募金にあてられました。改めて参加者の方に御礼申し上げたいと思います!

ありがとうございました!


さて、今月のテーマですが、その御礼にちなんで、また先月の影響を受けて「感謝」についてフォーカスしていきたいと思います。

なぜ先月の影響なのか。

先月のコラムの中で「お疲れ様」という挨拶について触れましたが、それを読まれた とあるYoga講師の方が「私はクラスの後、ありがとうございますって言ってます」ということを教えていただき、ストンと納得してしまいました。


ありがとうございます。


考えれば考えるほど、逆になぜ今まで使ってこなかったんだろうと思えるほどの納得でした。

クラスに来ていただいたことに対して感謝する。

極々自然なことなのに、これまでなぜ不自然とも言える「お疲れ様」を常用していたんだろう。。。


ありがとうございます。


本当に素敵な言葉ですね。

有ることが難しいことに対して、感謝と敬意を表して「有り難う」と表現する。


私たちは普段、ともすれば今ある多くのものに対して「当たり前」という感覚を抱いて生きています。とりたてて努力しなくても、必死になって追いかけなくても、当たり前のようにいつもそこにあり、失うという状況が当分は起こりそうにない。

でも実は「当たり前」のものなんてこの世にひとつもないし、お釈迦さんが「諸行無常」と説かれたように、物事は常に移ろい、形あるものはいつかはなくなってしまう。


それなのに、私たちは幸か不幸か、少しばかり変化しにくいものを「当たり前」と錯覚し、その「有り難さ」を見失い、感謝することを忘れてしまう。


いま目の前にあるものは、本当に当たり前ですか?


食べるものに困っていないということ。住む家があるということ。仕事があるということ。とりたててひどい痛みが身体にないということ。目が見えるということ。耳が聞こえるということ。感覚があるということ。


それがない時、あるいはない人は、その「有り難さ」を誰よりも強く知っていることでしょう。なのに当たり前に有る人は、その「有り難さ」を忘れてしまう。それがいかに「有り難く」、幸せなことであるかを見失ってしまう。

私たちは、様々な支えによって生きることができています。

そして、それらによって「私」という存在は支えられ、助けられて「生きる」ということが続けられています。

そのことがいかに有り難いかということの声明ともいえる言葉。

それが「ありがとう」という言葉のように思います。


私たちが、様々なものの支えを受けて生きているという感覚は、裏を返せば、自分だけの力で生きているのではないという感覚でもあります。多くの支えの中で自分が存在し、そしてその中で自分が「分」を果たして生きているという感覚につながります。


私は、この感覚こそがヨーガの結論であり、空に至るために不可欠な感覚であると思っています。

そしてその空という感覚を経て、私たちは「全体の中で生かされている自分」という実感を深め、分をわきまえて生きていけるようになる。


ありがとうございます。


この言葉こそ、日本語の中で最も素敵なマントラなのかも知れませんね。


このコラムを最後までお読みいただいて、ありがとうございました!!


Om Shanti


ページの終了