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綿本ヨーガスタジオ提供 YOGA.jp - ヨガ・瞑想を知るホームページ

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99%プラクティス

 

暮らしの中のヨガ哲学

ようやく春らしい暖かな日が続くようになりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

私の方は、、(という書き出しが定番になってしまいましたが)、私の方は先日、スティーブとの大阪リトリートに行ってきまして、最高に楽しい日々を過ごさせていただきました。勝手な印象で少し難しい人かと思っていたスティーブですが、会話のほとんどが冗談というような明るい方で、笑いあり、涙あり、試練あり、おまけライブありと、私自身、本当に楽しく参加させていただきました。またまたこの場をお借りしまして、素敵な時間を共有することができた参加者の方に御礼申し上げたいと思います。


さて、そのリトリートでもふとお話ししたのですが、この綿本。思い返せばヨーガ指導を始めて丸15年。綿本ヨーガスタジオの原型である、綿本ヨーガスクールが創立されて丸30年。何となく節目かなと感じるこの年に、改めまして、今の私の立ち位置から見えるヨーガの景色というものを、今月は徒然と書き連ねていきたいと思います。


今の私から見えるもの。


それは「日々のプラクティスこそすべて」ということです。


プロフィールのページでも自分のことを「ジュニヤーナ(知識)ヨギ」と呼んでいますように、これまで私は頭先行型でヨーガの哲学をただ模索し、自分なりの結論を構築してきました。

そもそもインド哲学というものは五目御飯のような構造になっていて、結論はとてもシンプルなのにも関わらず、それを多くの学派が我こそはと言わんばかりに持論を展開し、それをごちゃまぜにして語り始める人がいたり、あるいは分かりやすく伝えたいと思うあまりに嘘すれすれの方便を使ってみたり。そんな情報がインド哲学というフィールドに、こんもりと盛りつけられているものですから、勉強すればするほどにややこしくなり、理解を妨げているように思います。(私もそのうちの一人ですが。。。)


たぶん、どの哲学の結論もとても簡単で、なのにそれを伝える段階でややこしくなったり、表現と表現が衝突したりして複雑になってしまっているように思うのです。


何が言いたいのか。


ヨーガの哲学って実はカンタンなのですよということ。

そして、同時に、それを頭で理解することに大きな意味はないのですよ、ということが言いたいわけなのです。


例えば、りんごには「味」がありますよね。

品種や表現の問題はさておき、例えば「りんごの味は甘酸っぱい」ということを、頭で理解する、暗記することは、さほど難しくはない、というよりは超カンタンなことです。


ヨーガの哲学で言えば、私と宇宙はつながっているってことだったり、別の哲学表現で言えば、心も身体も現象であって本当の自分ではないってことだったり。それをテスト勉強のように覚えたり、知識として大脳にしまっておくことはとてもカンタンなことです。


でも、本当に大切なのは「りんご」を味わうこと。ってこれは例えの方で言えばですけど。りんごを食べたことのない人が、りんごの味の表現方法をひたすら暗記しても意味がないように、大切なのは、その「実感」の方なのです。


私の場合、その「知識」が「実感」に繋がるには、何年も何年も長い歳月を要しました。

理詰めで頭でっかちな分、長い間、正反対の方向に突き進んで行ってしまっていたのです。


そして、上記のようなヨーガの感覚という代物が、デジタル的にに急に訪れたわけでなく、アーサナ、瞑想、哲学勉強、試行錯誤、そして指導の中で少しずつ深まり、やがてそれらがすべてすーっと繋がっていったのです。


でもその感覚は、すぐに消えてしまいました。


その理由は、それまで培った「クセ」があるからです。

それは、私がまだ受精卵だった頃に授かった遺伝的なクセであったり、後天的に培われた思考のクセであったり、習慣であったり。ヨーガではこれを「カルマ」と呼ぶのですが、そういったどうしようもなく自分に染み付いてしまているものが、普通に過ごしている限りは私たちを「いつも通り」に引き戻してしまうのです。

しかも、そこから抜け出した時に味わうヨーガの感覚は、それを執着して追い求めれば追い求めるほど逃げてしまう、天邪鬼な感覚なわけで。。。


それでもアーサナや瞑想を続け、哲学を勉強し、気づきを繰り返す中で、意識さえすればそこに近づけるようにはなっってきた今日この頃。

毎日、その深まりを感じていっている状況なので、恐らくこれからも底なしの感覚に向かって深まりを重ねていくんだと思います。


でも、今の私には、まだまだ坐法やアーサナをとらないとそれを深めにくいし、深めるための時間が結構必要な段階です。

でもそこにたどり着くと、哲学が言葉で表現しようとしていたものが、確かに実感として存在しているわけです。現象としての自分。周囲とつながっている自分。ただ見守るだけの「私」。


でもすぐに元に戻ってしまう。だから私の日常はまだまだ非ヨーガ的なわけで、だからこそ日々のプラクティスの大切さを、今さらながらに痛感しているわけなのです。


あまりに慌しい毎日の中で、見渡す限り締め切りや問題が山積みされていて、一日の多くをそれに費やしていると、どうしてもそれまでの「クセ」の方が勝ってしまうわけです。百歩進んで九十九歩下がっている感覚。。。


そんな中で感じるのは、できるだけその感覚と繋がっている時間を長く保ちたい、ということ。どうすれば、その感覚と繋がりながら日々を過ごせるのかな。


そのすべての答えが「八支則」の中にある気が、改めてしてなりません。


日々の生活での心構え。哲学的なことを毎日繰り返して読む、あるいは口にすることの大切さ。そして特別な時間をとってアーサナを行い、瞑想を深め、その感覚と深く繋がる。


そしてまた締め切りを前に「クセ」が押し寄せ、また繋がり、そこに留まる。この繰り返し。


99%プラクティス、1%セオリー。


これはアシュタンガヨガの創始者、パタビジョイス師の言葉ですが、まさにその通りだと感じます。そして同時に、その「プラクティス」というものの中に、哲学を理解することや、それを反復して読み、口にすることや、日々の心構えも含まれているように私は感じています。


練習練習、また練習。


こう書いてしまいうと、とてもストイックで厳しい道のように感じますが、練習の行く先にその感覚と出会うことができたなら、またそこにたどり着きたい、そしてそこに留まりたいと思うようになると思います。


そんな幸せと繋がるための練習を、このコラムを読んでいただいた少しでも多くの方に、明日以降も続けていっていただけたらと願っています。


共にプラクティス、楽しんでいきましょう!


Shanti


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