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綿本ヨーガスタジオ提供 YOGA.jp - ヨガ・瞑想を知るホームページ

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暴力

 

暮らしの中のヨガ哲学

すっかり半袖の季節となりました。そんな原稿を書く私はまだ長袖なのですが、このコラムを読まれている皆さまは何袖でしょうか?

先日行ってきました広島でも、5月上旬とは思えないほどの真夏日。炎天下に長袖はなかなか辛いものがありましたが、それでも今回、安芸の宮島、大聖院の本坊にてYOGAを指導させていただくことができ、とてもハッピーなひとときを過ごすことができました。


宮島でのクラスは2クラスで、いずれも90名前後の方にご参加いただきました。お線香の香りが漂う本坊には、びっちりとヨガマットが敷き詰められ、仏像や砂曼荼羅を横目に、時おり鐘がぼ~んと鳴るとても素敵な環境の中、指導させていただいた私が一番癒されたんじゃないかなと思えるほど、本当に素晴らしい経験をさせていただきました。

毎度になってすみませんが、この場をお借りして、改めてお招きいただいたスタジオ103スタッフの方、そして当日ご参加いただいた方々に御礼申し上げたいと思います。


さて、その前日の空き時間、およそ20年ぶりに原爆ドームを訪れたのですが、本当に胸の奥が詰まる思い。人が人を殺してしまう。これも人が持つ本性なのかと、受け入れ難い感情に出くわしつつも、結局は普段私たちの心の奥に潜む、怒りや破壊の感情、そして自分のメリットや快楽を追及する感情の行き着く果ての出来事であると思うと、改めて胸に手を当てて普段の自分を情けなくも感じたのでありました。


暴力。。。


ヨーガスートラでは、ヨーガを深めるための八支分の冒頭、禁戒(=やってはいけないこと)の最初に「非暴力(アヒムサー)」を掲げていますが、それほど人の感情として根深く、それ故に「どげんかせんといかん」一番の感覚なのではないでしょうか。


イライラしたり、誰かを傷つけたり、何かを壊したり。

どうして私たちは傷つけてしまうのでしょうか。


ヨーガでは、その原因がエゴにあると教えます。

利己的な欲望を抱き、その思いの通りに事を為そうとする衝動。


その思いが何かしらの理由で妨げられたとき、私たちは暴力的な感情を抱き、言葉で、態度で、そして時として身体で暴力を振るってしまうのです。


では、このような感覚が実際に湧き起こってしまったら、私たちは自分を封じ込めればよいのでしょうか。自分の感情を押し殺し、抑圧して日々を過ごせばよいのでしょうか。


確かに、暴力の経験や記憶は、次の暴力の芽となり、やがて習慣化します。だからある程度我慢することは必要なのかも知れませんが、ヨーガではもっと本質的な問題解決を提案しています。


そもそも利己的な欲望を持っているからこそ、その思いは妨げられることになると。


理想論ではありますが、もし自分が本当に叶えたいと思っていることと、周囲が本当に望んでいることが合致していたとすればどうでしょう。自分の思いが妨げられる可能性はグンと低下することになります。

では、そういう環境に身をおくことが大切なのか。


そうではなく、周囲の思いを感じ、聞く耳を持ち、受け入れ、それと調和するような思いを持てばそこに衝突は起こらず、むしろスムースに事は進んでいくのです。


私たちが生きているこの社会の根本原理もそうなんだと思います。

多くの人が望んでいることを、真剣に叶えたいと心底願うこと。自分の思いと多くの人の思いがシンクロすれば成功はついてきます。また、社内で自分に求められていることを、自分の方もそれを行いたいと強く願っていると、物事がスムースに進む可能性は高くなります。

そのためには、まず周囲の人が何を望んでいるか感じ、聞く耳を持ち、受け入れ、それと調和する思いを持つことが大切。


先のコラムの免疫についても然り。私たちは自然体でいるとき、自然治癒力が最大限に発揮されます。であれば、どうすれば自然体で生きていくことができるのか。自分の思いを抑圧せずに済むよう、周囲の思いに自分の思いをシンクロさせていくことが大切。


これまた以前のコラムの酒についても然り。なぜ酒を飲むと気分が良いのか。それは普段自分を抑えつけている理性の悩を麻痺させることができるから。であれば、抑えつける必要のない調和の心を持ち、ずっと心を解放し続けることができれば、年中酔っ払いのように気分よく過ごすことができるのではないか。


自分の思い(欲求)と、周囲の思い(欲求)との間にあるギャップを埋めること。


自然体でいることで自然と周囲の思いを満たし、だからこそ正直に、ありのままに生きることができる。


ただ、そんな理想論やきれい事なんてものは他人から言わなくとも、多くの人が日々の暮らしの中ですでに「頭では」分かっていることなんだと思います。


結局のところ、これまで自分の利益を優先して追求することに慣れてきた私たちは、スイッチオンで瞬間的にYOGA的な頭に切り替えられるわけもなく、牛歩でそこに近づきつつも、すぐに「これまで通り」に引き戻される。その中途半端なところを行ったり来たりして彷徨い続けるのが私たちの現実なのです。


そして、それがラージャヨーガの限界なんだと思います。


ラージャ=王道。つまり、理想論に向かって正面切って歩んでいく道。

確かにスートラが言っていることは正しいと思います。エゴをなくせば、どれほど私たちは苦から逃れ、日々の暮らしを豊かにすることができるでしょうか。

ただ「頭で」分かっていても、すぐにはどうにもならない自分がそこにいるわけで、だから馬鹿正直にそこに向かう”以外”の何かが必要になってくるんだと思います。


それがハタ(陰陽=パワー)の必要性なんだと思います。


抑圧したエネルギーを発散させたり、内側から湧き起こるような自然な息を取り戻したり、身体を使って心の状態を調整したり。

頭で分かっているそのゴールに向けて、あの手この手で近づいていく。

生煮え半熟のまま、現実と折り合いをつけながら、半ば強引とも言える方法を頼りに、そこに向かっていくのが、現代社会に生きる私たちができる精一杯のことなのかな、と思う今日この頃。


私たちは生きている間に、どこまでそこに近づいていけるんでしょうか。


そうやってついつい未来に目を向けてしまうのも現実。


その現実を受け入れつつ、今この瞬間に気持ちを引き戻し、そんな右往左往を今日も楽しみつつ、暴力のない平和な心でいられたらと思います。


そんな今日が皆さまにとってもShantiでありますように。


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