仏に願いを
すっかりと梅雨らしい天気が続いていますが、というのは都心部だけなのか、場所によっては空梅雨だったり、ゲリラ豪雨に襲われたりと、相変わらず異常気象を感じる今日この頃。
皆さまの地域では何梅雨でしょうか。
このところ、すっかりコラムの書き出しが全国ツアー絡みとなり、マンネリは避けようと思いつつ、今回もやはり行ってきました日光。本当に素敵でした、何もかもが。という話題になります。
そのワークショップの冒頭でもお話ししたのですが、私はあまり「パワースポット」という言葉を好んで使わないのですが、そんな私でも使いたくなるような、強烈なパワーを感じることになったのです。
考えてみますと、一人で日光をぷらり散策しましたのは初めてのこと。改めて日光という空間に我が身をおき、何の先入観も会話もなく景色を見渡すことができたのですが、まず言葉をなくしたのが1本1本の杉が持つ存在感。
近くの神社などにドンと1本生えていて、立派な木だなぁと感じるような大木が、所狭しと普通に生えているわけで、全員4番バッターという変な例えを思いついては一人でニヤついている、今回も怪しい綿本でした。
中でもやはり東照宮の中に入りますと、\1,300を払ったという先入観からではなく、1つ1つの社がそれはもうとても美しく、そして存在感があり、お賽銭箱を見つけてはチャリンと小銭を投げ込み、二礼・二拍手・一礼を繰り返しておりました。
社寺へお参りする際、このところふと意識してしまうのが、私もお参りの仕方が変わったもんだと不思議というか面白い気持ちになります。
どう変わってきたかというのが実はこのコラムの主旨なのですが、堅苦しく表現しますと、次のように移り変わってきた次第なのです。
第一段階:自分の欲望が満たされるようにお願いする
第二段階:今の自分を支えてくれた人や力に感謝する
第三段階:参拝の対象(神仏)に心を委ね空っぽになる
とりわけこの三段階を意識したのは、ワークショップ当日の朝、特別に計らっていただいて護摩祈祷を受けた後のことでした。
ちなみに護摩というのは、サンスクリット語のホーマ(火を燃やすという意)を音訳した言葉で、炉の中に細く切った木を入れて燃やし、その中に供物を入れて煙と共に願い事を天上へと運び、恩寵にあずかろうとするもの。
物凄いスピードで形を変えながら燃える、高さ1mほどの炎を小一時間ほど見つめ、お坊さんの念仏とぱちぱちと木が燃える音を聞いておりますと、途中で大太鼓や大雨、雷などが加わり、自分一人では到達できないような、とても清らかで静かな境地に至ることができました。
祈願というよりは完全に瞑想です。
実際、護摩にはいくつかの種類があって、火で己の中にある煩悩を焼き尽くすという意味合いで行う内護摩というのがあるそうです。
そんな素晴らしい瞑想をとらせていただき、ふと帰り道の通路に目をやりますと、○○祈願 ××円という貼り紙などがあり、なるほどこれは方便なのかも知れないなと思った次第です。
ここからは完全に綿本の独断と偏見です。というか、このコラム自体がそもそもそういう代物なのですが(汗)、祈願というのはすべて「仕組まれた方便」なのかも知れないなと思ったわけなのです。
例えば、お寺や神社が、単なると言っては何ですが、己を捧げ、そして瞑想に耽るだけの場だったらどうでしょう。ほとんどの民間人(?)は集まらないでしょうし、変な話、社寺の運営なんかも、とても苦しくなるんじゃないかなと思います。
ところが「あなたの願い叶いますよ」と言われると、たいがいの人は気になってしまう。普通はみんな、自分の欲望を原動力に動いていますから、その願いが叶うとあれば、何となく多く払えば叶う確率が上がりそうな気さえしてついつい払ってしまう。
ただ、この願望成就は「ウソ」ではなく、信じる者はポジティブになって救われたり、あるいは自分だけの力で成功してやるなんていう身の程知らずではなく、何かに頼るという謙虚さも生じたりする。そんなことが手伝って、願望が成就したりすることもある。
もちろん本当のご利益の真偽については、直接的なコメントは控えます。
そうこうしているうちに、私の場合は色々と恵まれたこともあり、社寺に参拝する際には、必ず様々な助けや支えに感謝するようになってきたのです。
感謝の気持ちを持つことで、自分が自分だけの力で成り立っているのではなく、多くの人の中で、その支えの中で生きているという感覚が膨らんでいく。結果としてその感覚は、また己を助け、結果として願望成就に結びついていくのかも知れません。
いずれにしても、私の場合はそういう感じで参拝の形が変わり、そして近頃、何もお願いしない、何も感謝しない、ただ我を捨て、心を空っぽにするだけになったのです。
スートラでは教えます。
あらゆる苦の元凶はエゴにあると。
間違った自己認識、セルフイメージが、間違った「我」を生み、苦が生じると。
つまり、私たちが本当に幸せになりたいと願うなら、それを手放しなさいとスートラでは教えるのです。
欲望充足のための祈願に始まり、感謝を経て、空に至る。
空に至ればこそ、結果として本当の幸せを手にすることができる。
何となくそれが、社寺での参拝を通して、最初から仕組まれていた図式なのかと思えてなりませんでした。
ちなみに「方便」というのは、仏教用語で、本当のゴールに導くために、ウソではないけれども真実とは少し違う巧妙な方法で衆生を導くこと。
まさに参拝というのは、空に至る「方便」なのかなと感じる今日この頃。
最後になりましたが、そんな直後にワークショップを受講していただいた参加者の皆さま方、ありがとうございました!
また、話題を飛ばしてしまいました、福岡ワークショップにご参加いただいた多くの方々、重ねて御礼申し上げます!
Om Shanti!