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ドラッグな平和

 

暮らしの中のヨガ哲学

今年も夏が終わろうとしています。

この8月、皆さまはいかがお過ごしでしたでしょうか。

毎年この季節、日本では夏という以外に、お盆、終戦など、何かと厳かな雰囲気の漂いを感じるのですが、私が大昔に通っていました小中学校が、とりわけ平和教育の盛んな学校だったためか、この炎天下に加え、少し物悲しくも聞こえる蝉の声、そして寿命を終えた蝉たちの死骸を見ていますと、何となく死と隣接した印象が、いまだ無意識の奥底から8月という一ヶ月を包み込んでいるように感じます。


そんな中、時おりテレビのスイッチを入れてみますと、高校野球の裏側で、相変わらずドラッグの話題が持ちきり。これが戦後の日本が目指した成れの果てかと、改めて平和について考えさせられる今日この頃です。


この世に肯定されるべき戦争など一つもありません。

ただ同時に、すでに起きてしまった戦争の上に、結果として今の平和が成り立っているのも紛れもない事実だと感じています。

あくまでも過ぎ去った過去を、書き換えることのできない現実として捉えるならば、気が遠くなるほどの犠牲の上に、いま私たちが手にしている平和が乗っかっていると言えなくないように思うのです。


愛する家族を守るため、奪われた自由を取り戻すため、そして不合理な社会を作り変えるため、その手段としては間違っていたのだと思いますが、そうして作られた社会が、いま私たちが暮らす21世紀の社会なんだと思います。


手に入れた自由、克ち取った平和。


今は亡き先人たちからすれば、理想ともいえるこの社会の中で、私たちが育んでいるもの。それが、横暴に言ってしまえば「ドラッグ社会」ともいえる現実のように思えてなりません。


そんな社会の縮図ともいえるニュースを見ていますと、私が最初のインド修行を終えて帰国した頃のことを思い出します。

当時24歳だった私が帰国して最初に思ったこと。

それは「腐りきっているなぁ、この日本」ということでした。

そのことを今は亡き父に伝えたところ、「修行が足りん」と一喝されたことを覚えていますが、他人様に作ってもらった平和の中で、ぬくぬくと欲望充足に耽る日本人を見て、当時の私はそんなことを率直に感じたのだと思います。

今から振り返ると、確かに「正しい意見」なのかも知れませんが、「修行が足りん」という意味もとてもよく分かります。


ドラッグ社会。


なぜ私が今の日本をそう呼んでしまっているのかといいますと、その前に少しだけドラッグについてお話する必要が出てきます。ちなみに、ここでいう「ドラッグ」とは、葛根湯とかを売っている○○ドラッグという薬局屋さんのこと。

ではなくて、麻薬のことです。


麻に限らず、それを注射器を使って静脈に打ち込んだり、煙草にして吸ったり、ストローなんかで鼻から吸ったり、、、(中略)、、、お菓子の中に盛り込んだり、舌の下においたりすることで体内に摂取し、脳を騙して気持ちよくなったり、テンションを高くしたりする作用を持つ物質のことです。


そもそも私たちの脳というのは、DNAによって精妙にプログラムされた高性能コンピュータのようなもの。

その基本構造はといいますと、生命を維持し、子孫を残すために、適切な行動をとると快感という褒美が与えられ、不適切な行動をとると苦痛という警告が与えられるようにできていて、経験と共に学習しながらうまく生きていくように設計されているのです。

この他、時として興奮して火事場のくそ力を呼び起こしたり、沈静してぐっすりと眠れるようにもプログラムされています。


その際、神経伝達物質という「カギ」の役割りを果たす物質が分泌されて、脳の中なんかにある「カギ穴」にはまり、その結果私たちは心地よさを感じたり、興奮したりと、様々な精神作用が起こるように作られているのです。


そして、その「カギ」ではないんだけれど、偶然にもその「カギ穴」に納まるような物質が自然界にあったり、また人口的に作られたりして、これをいいように使えばハーブであったり、化学薬品であったりするわけなのですが、ただ単に気持ちよくなりたい、興奮したいという直接的な作用を楽しむことに使用すると、いわゆる麻薬と呼ばれるものになります。

英語で言えば、薬も麻薬もドラッグなのは、この意味合いからも伺えますね。


かくなる私も、最初のインド修行の際には、現地で合法ドラッグなる代物を、合法的に、あくまでも合法の範囲内でやったことがあるのですが、それはまた別の機会にお話しするとしまして。。。


いずれにしましても、この構図が見えてくると、ドラッグに限らず、私たちが日々の生活で見るもの聞くもの触れるもの、その多くがドラッグと大差のないものであることに気づきます。


本来は、いま摂取すべき栄養とそうでないもの、そして危険なものを見分けるために備わっている味覚を利用し、ただ味覚を楽しませるためだけに味付けが追求されたり、危険回避や情報伝達のために備わった聴覚をi-podなんかで楽しませてみたり。


私たちが普段行なっている活動の殆どが、備えつけられた脳や身体の機能を本来通りに使わず、ただ単に心地よさを追求する手段として用い、それを頑なに追求し続けているのが、いまの社会の大まかな動向。


とは言え、私はその構図そのものを否定するつもりはまったくありません。

24歳の青い私が否定したこの世の中を、今の私はとても楽しみながら過ごしていますので、横暴な表現をするところのドラッグ社会の一員なのです。(ドラッグはやってませんよ)


ただ同時に言えるのは、私たちが与えられた機能を「楽しむこと」に使用することによって、その副作用を被る可能性があることを理解し、ぷよついた下腹なんていう痛手を何度も経験し、苦い思いをしながら、少しずつ本来的な方向に戻ることも視野に入れておく必要があるのかなということです。


私たちの欲求が、本来的には何を求めて設定されていて、本質的には何に心地よさを感じるのか。それを他人から教わるのではなく、自らの心や身体に問いかけながら軌道修正を繰り返し、本来の道に戻ってくること。


それがYOGAの道なのかなと思う、これまた今日この頃。


気が遠くなるような犠牲の上に成り立っている今の平和。

恐らくその犠牲となった先人たちは、程度に差こそあれ、ドラッグ漬けともいえる状態に陥れるために、私たち子孫に自由と平和を残したのではないような気がします。


炎天下に蝉の鳴き声が鳴り響くこの季節、今一度自分自身に問いかけてみようと、そんなことを思いながら胸に手を当てる綿本でした。


皆さまはこの8月、何を感じましたか?


何を感じたとしても、この月末がShantiでありますように!


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