オリンピック瞑想
[ ● ] メダル数 金×0 銀×1 胴×2
恐らく明日には書き換わることと思いますが、しばらくこの状態が続いていますYahooのトップ画面。
Googleの方はといえば、イラストでオリンピックモードと、テレビをつけなくてもバンクーバー一色という今日この頃。
いかがご観戦でしょうか。
私は今回のオリンピックはあまり観戦モードではないのですが、やはりカーリングと女子フィギュアスケートは気になってしまっていまして、男子フィギュアで高橋大輔選手の胴メダルを受け、浅田真央さんが「自分もメダルが欲しいと思いました」と発言したのが、とても印象的で、非常に素朴な表現だなぁと思った綿本でした。
金メダルが欲しい!
ともすれば、非ヨガ的とか非瞑想的とか思われがちな世界。
ヨギーは競い事なんて見ない方がいいと言われてしまいそうな雲行きかも知れませんが、私はあながち正反対の世界ではないし、むしろ非常に近しい世界であるように捉えたりしています。
何かひとつのことを深め、そして極めていく。
そのためにはとてつもなく強い執着心が必要で、その執着心に導かれながら先へ先へと突き進んでいきつつも、どこかしらでその執着を手離すということが強いられていく訳で。。
スポーツでもヨガでも、物理学でも音楽でも、どの道を選び、歩んでいこうとも、そこには必ずといっていいほど同じ構造が横たわっているように思えるのです。
どの道を進もうとも、最初は楽しくて、でもそのうち険しくて、思い通りにならない局面が来て、多くの人がその先へ歩むことを諦めてしまう。
一つのしたいことに対して、百も千もすべきことが待ち構えている。
イメージで言うとそんな感じで、どの道を進むせよ楽しさの中にも困難が見え隠れしていて、それでもそこを乗り越えていくには、強い信念とか強烈な執着、モチベーションが必要になってくるように思います。
その執着が強い集中力を呼び起こす。
他の何を想うよりも、それを強く想く気持ち。
その想いは、とりわけオリンピックなんかの大舞台で最大限にまで高まります。
長野五輪で金メダルの清水宏保さんは「五輪の大舞台では、自然と調子がピークになって、逆に頑張りすぎることが多い。だから少し力を抜くくらいの方がいい。」というようなことを、ご自身の経験から語っていました。
そんな最大限の集中をしている大舞台だからこそ、見ている人にはその集中が伝染し、感動を与えるんだと思います。
私は感動っていうのは、あり得ないことを成し遂げるほど、極度に集中している人の集中状態を受け取って共鳴している状態だと思っているのですが、それがまさに起こるんだと思います。
他の何をするも惜しんで練習に励み、その瞬間にすべてを出し切ることに専念してきた人たちの集中力。
ただ、先の清水選手のお話にあったように、それほどまでの大舞台では、その大きすぎる執着が、逆に雑念となって力みを引き起こし、今回最年少出場の高木選手がいうところの「空回り」になってしまうんだと思います。
ヨガでも瞑想でも然り。
執着がなければそこにはたどり着けない。でも、大きすぎる執着は、それそのものが邪魔ものになって雑念となり、追い求める結果から遠ざけられてしまう。
八支則でいうところの第六段階と第七段階の違い。
第六段階では、集中への努力、つまり集中しようとする働きかけや、瞑想を深めようとする執着が残っていて、それがあればこそある程度の集中が起こります。
でも、そのままの状態だと、いつまでたっても集中は極まらない。
金メダルへの執着やら、失敗への不安やら。そういったものが完全に払拭され、いま行なっていることにのみ専念することができれば、自然と自分のポテンシャルが発揮される。
浅田真央さんにしても、その後に続いたキム・ヨナさんにしても、演技が始まる前、執着の裏返しからくる重圧を押し隠すような表情から一転し、演技が始まった後のその瞬間瞬間にのみ集中し、連続する一瞬に没入し溶け込んでいる表情を見ていると、改めてこの人たちは凄いなぁと涙がポロポロと溢れ出てきてしまいます。
同じように、集中しようとする努力や、瞑想を極めるといった執着さえ手離し、完全に今感じているものだけを受け取ることによって瞑想が極まる。
一見、対極ともいえる二つの取り組みは、実はまったく同じ枠組みを持っていて、そういった人の集中を観戦するということは、その人の集中が伝染することになり、だから私たちはスポーツ観戦に魅せられていく。
とは言いつつも、心配性な私はついつい手に汗を握って、息を飲みながら観戦してしまう観戦ビギナー。。。
もう少し瞑想の修行をした方がよさそうですね。
皆さまの応援も、とても瞑想的でありますように!!!
明日はフリープログラムだ!
Om Vancouver