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綿本ヨーガスタジオ提供 YOGA.jp - ヨガ・瞑想を知るホームページ

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暮らしの中のヨガ哲学

もはや地球もこれまでか、と思わんばかりの猛暑が続いていますが、ニュースによると全国的なものということなので、おそらく皆様がお住まいの各地でも同様なのかなとお察しします 今日この頃。

猛暑、お見舞い申し上げます m(_ _)m


そんな2010年8月25日。

東京は今日もご多分に漏れず猛暑真っ只中。

窓の外で揺れる雑草を眺めながら、さて何を書こうかなと色々と想いを巡らせてみたのですが、穏やかなクーラーが効いているとは言え、少しじっとりするこの室内。 しばし閉眼にて思案していると、連日の睡眠不足のため、うとうとと瞑想ならぬ迷走気味のこの綿本。

そんな中ふと閃いた数字が 17。


そういえば、あれからもう17年か。。。


1993年8月29日。
私が最初にインド修行に出かけた日付です。


大きなバックパックの底には、着替えのシャツとパンツを数センチに圧縮して詰め込み、水筒とジャポニカ学習帳の自由帳3冊、残りスペースにはヨガ本はもとより、気功、整体、心理学、セラピー、哲学、宗教、大脳生理学、量子力学、ドラッグなど、精一杯の本をびっしりと押し込み、最初に入門する Yoga Institute があるボンベイ(現ムンバイ)に向け出発した日。


そう言えばもう一つ、私の人生に欠かせないもの。


音楽。


当時の旅の必需品であるPERSONZの最新アルバムと、父が無空のポーズの実習テープ作成に使用していたデッキを駆使して編集したオムニバスの計2巻のテープ。その中には、ご丁寧に西暦が刻み込まれた「夏の日の1993」という曲を入れていたのを覚えています。


さておき、インドに渡った私は、様々な場所でヨガを学び、練習し、ズラリと並べた本を頼りに、それらを多方面の知識へと繋げ、、ようとするもできずに悩み、もがき、悪いものを食べては腹を壊し、倒れ、運ばれ、血便を流し、PERSONZに励まされ、重い図書館を背負いながら移動し、学び、練習し、また腹を壊したりしていたものでした。


そもそも私がこのヨガの道に入ったのは、まず父がヨガ指導者であったというのは最大の理由ではあるのですが、何よりも私が「自分って何なんだろう、死ぬとどうなるんだろう」ということを、幼い頃から知りたかったからに他なりません。


そういう意味で私は、「ヨガ」を学ぶことに興味があったのではなく、「人」というものを学びたくてこの道に入ったということになります。

そんな訳なものですから、父を含め 師から聞いたことを決して鵜呑みにせず、インドの哲人クリシュナムルティの如く、必ず自分の中で多方面から咀嚼し、その記録をジャポニカ学習帳 (後にそれは何十冊にも及んだ後、ルーズリーフ化するのですが。。) に残し、分からないことは、何年かけてでも解明しようとしていたんだと思います。


そんなジャポニカ学習帳の記念すべき一冊目の、比較的最初の方のページに 「欲望」 についてのメモ書きを残したのを鮮明に覚えています。


なぜヨガを進めていく上で 「欲望」 を捨てなきゃいけないのか。


欲望があるからこそ私たちは意欲的に生き、苦を乗り越え、幸せに生きていくことができるんじゃないかな。

欲望を完全に捨てたりしたら、たぶん私たちは無気力になり、膝蓋骨反射のように機械的な動きだけになってしまうんじゃないかな。

それに、欲望がなくなったら人類は滅亡しちゃうことになる。それが理想だと言うなら、みんな戦争起こして死んじゃえばいいってことにならない?


そんな疑問から時を経て、私は、様々な古典文献や教えの中に、政治的な背景や方便なんかが、びっちりと鮨詰めにされていることを知ります。


そんなこんなの大人の事情が 「本当に知りたいこと」 を覆い隠していたりする。


インドに侵攻し、カースト制度を作って先住民を支配下に置いたアーリア人。

その最上の身分であるバラモン僧が牛耳る社会や世界、哲学を、真っ向から否定しようとした古典ヨガや仏教が描いた「否定」の哲学。


そういう時代背景が見えてきたりすると、生きるということ自体を苦であるとし、苦を引き起こす心の働きを不浄とし、それらを完全に滅した世界へ没入することをゴールとする、古典ヨガの思惑や意図が理解できるようになる。。


さらに、そういった自らを否定する古典ヨガをも肯定し、より大きなヒンドゥーという体系に取り込もうとするバラモン帝国 (註:帝国という表現は、スターウォーズ的なイメージで綿本が勝手に用いているだけの言葉です)。

その歴史的な証拠とも言える「バガヴァッドギータ」という叙事詩では、ヨガとヒンドゥー教を融合させようとする試みに加え、戦争を肯定しているともとれる比喩をベースに話しが展開していきます。


数行で書き記すにはあまりに複雑な「事情」な訳ですが、私のこの17年間は、そういった事情を一つずつ見極め、真意を汲み取り、繋げていく歴史だったのかなと思いました。


もちろんその作業は私が死ぬまで続き、誰かに繋がり、受け継がれていくのかなと勝手に希望的観測するのですが。。

コラム着手前、i-tuneに取り込んだPERSONZの新譜をお初に聴いていると、いつの間にかインドで何十回と私を支えてくれたアルバムに曲は移っていました。


で、今回のコラムは何を書こうかな。。。


だらだら徒然と綴っているうち、中身がないまま程よいボリュームにもなったし、今回はこれでまぁいいか。

などと、A型的な私の、O型としての本性が見え隠れする午後のひとときでした。


そんな訳で、私のインド放浪期はいつかじっくりと別の機会に。


この猛暑、どうか共に Shanti に乗り切っていければと思います。


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