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一元論と二元論

 

暮らしの中のヨガ哲学

またもや猛スピードで卯月というひと月が駆け抜けてしまいました。皆さまはいかがお過ごしでしょうか、綿本です。

今月は全国ツアーが始まり、名古屋、大阪と「Yogaではじめる瞑想入門」ワークショップを行って参りました。2箇所での講座を終えてみて思うのは、やはりワークショップは「いい空気が回るなぁ」ということです。受講生の方々も私も、完全に共通の目的で同じ空気感を味わい、一体となって時が流れていく。終えた後は私も本当に皆さまに癒され、素晴らしいひと時を共有させていただきました。この場をお借りして御礼申し上げつつ、やはりそういう場ではないですね。

ここはコラムでした、失礼しました。


さて、少しずつ難解になり、かつ日常生活から遠ざかっていくコラムですが、さらに学術的、哲学的なお話しを突き進めていきましょう。今月のお題は「一元論と二元論」です。


ヨーガの哲学に興味を持ち、スートラやハタヨーガ・プラディーピカー、ヴェーダなどの哲学書を読み進めていくと、学習すればするほど迷路に迷い込んでしまう時期がきます。そのとても大きな要因となるのが一元論と二元論の溝です。

平たく言うと、一元論というのは「この宇宙はたった一つの素材(要素)で構成されている」という考え方。それに対して二元論というのは「あらゆる現象を作り出している要素と、それを純粋に見守っている存在=純粋意識の二つからできている」という考え方です。ちなみに、ヨーガスートラでは後者、ハタヨーガでは前者の哲学をベースにしています。これが難儀なのです。

私たちが普段行っているヨーガの多くは、主に身体を動かすハタヨーガの要素が強いものなのですが、にも関わらず、その多くの指導者が八支則やヨーガスートラを哲学的な拠り所にしています。つまり一元論と二元論がごちゃまぜになっているわけです。確かに、その五目御飯的な感覚こそがインド哲学の醍醐味ともいえるのですが、その味わい深さの話しはさておき、この構造によって多くのヨギーの哲学理解が阻まれているのも事実です。

さらに言えば、これに加えて前回ご紹介したタントラ的な方便が加わってくると、もう何が正しくて間違っているのか、どれを信じ従えばいいのか、皆目検討がつかない混沌とした状態になってきてしまうわけです。

ご参考までに綿本の哲学はと言いますと、八支則やヨーガスートラを哲学のベースにしながらも、最後の最後で一元論に落とし込んでいます。前回スートラを採択といったばかりなのにすみません。

綿本的な解釈で一元論と二元論を説明しますと、例えば私たちが
「お腹すいたなぁ、ご飯食べたいなぁ」と感じたとします。二元論では、お腹すいたなぁという衝動や、その結果何かを食べるという行動、言い換えると精神的、物質的な「エネルギー」は、それを純粋に感じている「意識」とは別物であり、どうあっても相容れない別個の存在であると考えます。

これに対して一元論では、お腹すいたなぁという衝動こそが、この世に存在する唯一の存在であり、それは何かを変化させる力を持つエネルギーであり、かつ意識する主体でもあると考えます。ちなみに物質を形作るための分子同士の結合力なんかも、腹ペコと同じ「僕はプラスだから、マイナスちゃんとくっつきたいなぁ」という感じの衝動で構成されていると解釈されます。

もしこの奇妙なお話し、ヨーガが自分とか宇宙についてどう考えているか、詳しく知りたい方は、コラムを何年か継続してお読みいただくか、「瞑想ヨーガ入門」(実業之日本社 \1,470) をお読みいただければと思いますが、宣伝まがいのこと(というかむしろ宣伝)はさておき。そんな私の理論も行き着く先は、最終的には「真実や真理なんてものは本当はどちらでもいい」という結論に至ります。学術的に、哲学的に「これが正しい」なんてことは、とどのつまりはあまり重要ではないと思っているのです。

ここまで読ませておいて何を言う!と思われるかも知れません。

あるいは、いやそんなことはない、目指すべきゴールが明快でなければ、そこに至る方法も定まってこないのでは、と指摘される方もいらっしゃると思いますが、まったくもってその通りだと思います。

ただ同時に、最終的に大切になるのはそういった究極レベル「理論」ではなく、そこを目指すことによって生まれる「実感」の方ではないか思うのです。とてもシンプルに日々の実践を積み重ね、その先に築き上げられていく感覚。それこそが大切なのではないかと思っています。

感情に振り回されて思い悩んだり、ストレスを蓄積して身体を壊したりなど、日々の暮らしの中で生きてこない理論や知識であれば、それはYogaの本質からは遠ざかっているのではないかと思ったりもします。一元論が正しかろうが二元論が正しかろうが、毎日の気持ちを穏やかで豊かにする方法としてYogaを実践し、そこに向かって実践を積み上げていく。この姿勢こそが大切なのではないでしょうか。

そして、誰が究極理論の正解者であったとしても、それを信じる相手の意見を認め、そして自分の意見を認め、その違いをも認めて受け入れること。そういった受け入れる気持ちを育むためにYOGAを実践し、日常生活の中に生かしていってこそ、私は本当に価値あるYogaではないかと思っています。

一元論、二元論に興味ある方には面白くない結論かも知れませんが、暮らしに生かすヨーガ哲学として、思うところを連ねてみました。

来月も、そんなYogaを多くの方が積み上げていけますように。
Shanti


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