哲学を”知る”ことの意義
気持ちのいい五月晴れの日々が(東京では)続いていますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか、綿本です。
今月はすべての全国ツアーを終え、私自身も本当に素晴らしいエネルギーを皆さまから頂戴することができ、ご参加いただきました皆さまに、改めてこの場をお借りして心の底から御礼申し上げます!
さて、早速今月のお題なのですが、今月は箸休め的に「哲学を”知る”ことの意義」についてお話ししてみたいと思います。
このコラムも回を重ね、読者の方々からメールなどを頂戴する中で、とても興味深く面白いというご意見の一方で、哲学を学ぶ意味、意義そのものが分からないという声を頂戴したりもします。
確かに第一回で、哲学は頭で理解するものではなく、実感することが大切であると明言したにも関わらず、その後続々と小難しい理屈が展開されていることに疑問をお持ちの方もいらっしゃることと思います。そこで今回、”哲学を頭で理解する”意義はあるのだろうか、ということにフォーカスしていきたいと思います。
いきなりの余談で恐縮ですが、私の場合について申しますと、意義以前に哲学が好きだから研究してしまうという現実があるのですが、そういう人はどんどん探求していけばいいわけで、ただ私を含め、この手の人は頭に偏る傾向がありますので、実感とのバランスをとっていくことが大切かと思っています。いずれにしてもテーマとは関係なかったですね、そう「意義」でした。
簡潔に言い切りますと、哲学を”知る”こと、そのものにはあまり意義はないと思います。ただ同時に、”知る”ことが”実感”を助けることも多くあり、実感と結びついた”知識”は”智慧”となり、私たちの生活を大きく変える力、意義を持っていると思っています。
『知識は智慧の母である』
何となく括弧でくくると偉人の言葉のようなので、
くくってみました(笑)。
智慧に育たない知識に対して執着することは、Yogaの正反対の方向へ私たちの脳みそを導いてしまう危険性を持っているかと思います。ただ実際には、知識が「気づき」を生み、それが実感へと結びつくことも少なくはありません。
例えば「執着は苦痛の芽である」ことを詳しく知ることで、執着や苦痛に対する捉え方=感じ方が変わる人もいるでしょうし、その結果とても生きることが楽になる方だっています。また、前回のテーマである一元論や二元論を深く探求し、それを実感に落とし込むことができれば、それはすでに瞑想そのものだといえます。
知識は気づきを生み、気づきは物事の捉え方を変え、感じ方を変え、それがYogaにとって最も大切な「実感」に結びついていく、というよりはむしろ「気づき」そのものが「実感」なのです。
話しが少し横道にそれてしまいますが、このように物事の捉え方を変えてしまうような気づきを得ることを仏教では「悟り」と読んでいます。悟りというと、人間離れしたような究極の思考になることのように思われがちですが、禅宗の太祖である白隠禅師が「大悟十八度、小悟数を知らず」と記しているように、数え切れないほどの気づきが人生の中で訪れ、それがより大きな気づきや実感の土壌となっていくということを説いています。
禅といえば「不立文字」。知識よりも実感を重視するのでは、と思われるかも知れませんが、実は禅ほど多くの文献を活字にしている宗派は仏教の中にないと言われています。本当に伝えたい「実感」は活字や知識の中にはありません。ただ、その活字や知識を通して「実感」を得るための方法を知ったり、その実感に近づく気づきを得たりすることはできるのです。
Yogaもまったく同じです。
Yogaにとって「知識」そのものは重要でも本質でも何でもありません。ただ、その知識によって気づきを積み重ねたり、Yoga全体の見取り図を理解することもできる。そのことによってYogaを深めると同時に、自分がどこに向かっているのか、今取り組んでいることが落とし穴に通じていないか、Yogaと正反対の方向に向かってはいないか、ということを理解することができるわけです。
これは哲学に限ったことではありません。
Yogaでは解剖学的な知識についても同じことがいえます。解剖学は知っているだけでは何の意味もない。ただ、その知識がアーサナ実践の中で身体を通して智慧となったとき、本当に役立つものとなります。危険を防ぎ、身体を適切に動かし、身体感覚を深めてくれる。そしてその実感がまた、解剖学の理解を深め、さらなる実感へと結びついていくのです。
智慧は私たちの生活をはじめ、生きることそのものを豊かにしてくれます。それはとりわけ指導者にとっては不可欠なもの。指導者は自身の存在感だけでもって何かを伝えることもできなくはありませんが、言葉の力を借りてそれを伝えることはとても大切なこと。そのために哲学や解剖学などの知識を日々の実践によって智慧にまで高め、それを言葉でもって伝えていくことが大切です。
またこれは指導者に限らず、すべてのヨギー、ヨギーニにとっていえることでもあります。ヨーガを実践する方の多くは、本などを読みながら自身を師とし、自身を励ましたりある方向へと導こうとしたりします。このセルフプラクティスができるのもYogaの大きな魅力のひとつ。実感や心の深い部分を自分自身でYoga的な方向へと調整していく上で、自分自身が師=指導者でもあるわけです。そういったプロセス、自身をより深い実践へと導くためにも、知識が役立つ可能性は大いにあるわけです。
そんな意味で、哲学を”知る”ということの意義は、それを気づきに変え、実感を経て智慧にまで高めることができるか、というところにかかっていると言えます。頭に偏りすぎず、実感のみに偏りすぎず。
そのバランスこそが、現代人のYoga実践には大切なことなのではないでしょうか。