自然の摂理
寒かったり暑かったりと、相変わらずおかしな天気が続いていますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。
今月もまた私の近況報告からで恐縮なのですが、先日秩父にて200時間トレーニングの前半、1日10時間×9泊10日を終えまして、
過酷ながらもとても有意義な時間を過ごすことができ、ホテルの方々、スタッフ、先生方ならびに受講生の皆さまに、またもやこの場をお借りして厚く深く強く御礼申し上げたいと思います。本当にありがとうございます!
いつも切り替えが早くてすみません。早速なのですが今月のお題です。今月は「自然の摂理」と題しまして、先月のお話の援護射撃と言いましょうか、もう少し違う側面から物事の本質に迫っていきたいと思います。
皆さんは「自然の摂理」と聞いて何を思い浮かべますか?
空気は温めると軽くなり、上昇気流となる。気圧の高い方から低い方へと風が吹く。金属は放置すると酸化してサビてしまう。地球上で物を投げると最終的には着地(着水)する。人体について言えば、受精卵は10ヶ月程度で成熟した胎児になる。ウイルスなどに感染すると、体温が上がり免疫力が高まる。体温が上がりすぎると汗を書いて冷却しようとする 働きが生じるなどなど。。
懲りずに引き続きあれもこれもと根気よく書き連ねていきますと、結局のところ私たちが見聞きするもの、体験するものすべてが「自然の摂理」に基づいて動いていることに気づいてしまうことになります。
そうなんです。この世に「自然の摂理」に基づかないものは何ひとつない。というよりは、ありとあらゆる現象の背後にあるルール=律のことを、私たちが勝手に「自然の摂理」などと呼んでいるだけの話しなのですが。。。先月のエネルギーの話と同じですね。(同じテーマについて言葉を換えて扱っているだけなので。。)
いずれにしても、ここで素朴の疑問が生じます。(無理にでも生じてみてください)
そもそも「自然の摂理」って何者なの?
確かに命名の問題でもあるのですが、その摂理というか法則というか、ルールというか力というか、そういうものが実際に存在するのも事実。そういった力やルールが実際にあるからこそ、私たちが今この瞬間目の当たりにしている世界が動いているわけですから。
ではそれは一体何者なのか。
残念ながら、誰もが納得する形でこれを説明できる人は、2007年の7月末の時点では一人もおりません。
確かに科学は多くのことを解明してくれました。そして、そのことで私たちは、自然の摂理を解き明かした気分でいるようになっているかも知れません。でも、その本質的なことについては100%闇の中。つまり何ひとつ、根本的なことは解明されていないのです。重力がなぜ働くのか、プラスとマイナスはなぜ引き合うのか。何ひとつ本質的なことはわかっていないのです。
「そうなっている」としか言いようがないこと。「自然の摂理」としか言いようのないこと。ただ、少なくともその摂理のお陰で、その何か分からないけれどとても精妙としか言いようのない力のお陰で、風が吹き、水が湧き、そして私たちは息をし、他の生物からエネルギーを補給し、子孫を残し、生きていくことができる。恐ろしいほどに精妙、巧妙な力が働いていて、今の世界が動いていっているとしかいいようがない現実。もっと言ってしまいましょう。
私たちの身体は60兆の細胞からできています。それらの細胞を監督指揮しているのは何者でしょうか。「私」は、皮膚の内側で一体何が起こり、何が営まれているのか、その殆どのことを知らないまま生きています。神経細胞がどのような役割を果たし、またどのような種類の免疫細胞が活躍してくれているのか。「私」の知らないところで、気が遠くなるような分業、営みが行われているのです。その「私」が知らないところで、勝手にその営みをしてくれている「自然の摂理」とは。。。
科学は、この宇宙に存在するあらゆる現象や存在が、たった4種類の力で成り立っているということを突き止めました。この事実に基づけば、「自然の法則」というのは、たった4つの力によって構成されていると言い換えることができます。私たちが見聞きするあらゆる現象や存在が、たった4種類の力によって引き起こされてことになるのです。そして科学は、それらの4つの力も、実はたった1種類の力によって生じていることを証明する方向に向かって突き進んでいます。
これはどういうことを意味するのでしょうか。
つまり、私たちの身体を含め、すべてのものがたった1種類の力の働きによって生じ、結果としてこの複雑極まりない世界が生じているということを証明しようとしているのです。
まさに東洋思想の世界観ではないでしょうか。
私たちが普段「当たり前」としか捉えていない「自然の摂理」なるもの。あらゆる自然界の法則、人体の神秘を司る「自然の摂理」。ひょっとすると科学は近い未来、これがたった1つの力の働きによるものという事を証明してしまうかも知れません。
たった1種類の力によって、今私たちが見聞きするもの、私たちの存在を含めてすべてが構成され、営まれているかも知れない。
とても中途半端なところですが、次月この考え方をヨーガにおける「梵」という概念と結びつけて、さらに掘り下げていくことをお約束しつつ To be Continue にしたいと思います。生煮え御免。