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暮らしの中のヨガ哲学

ようやく夏らしい天気が続いていますが、皆さま夏バテなどは大丈夫でしょうか。

私の方は、指導者トレーニング前期と後期の谷間ということで、今年リリースを予定しています解剖学DVDの翻訳監修と、超初心者向け瞑想本の執筆を行っております。

さて、先月はとても中途半端なところで途切れまして、大変失礼しました。今月はその続きということもありますので、数行で要約しますと


私たちが生きているこの自然界、もう少し大袈裟に言えばこの宇宙には、人智の及ばない、とても精妙な法則、律、ルール、換言すると「自然の摂理」が存在し、私たちはそのルールに従って病気になったり治ったり、私たち人間以外にも様々なものが存在し、変化したり動いたりしている、ということでした。

そして、今月はこの「自然の摂理」なるものを、ヨーガやインド哲学でいうところの「梵」という考え方に結びつけていきたいと思います。


「梵」というのは、サンスクリット語のBrahman(ブラフマン)という言葉を漢字に置き換えたもの(音写)なのですが、「宇宙の本質的な存在」という意味を持つ、インド哲学で最も大切な概念を表す言葉です。


この「梵」は、ヨーガの育ての親ともいえるバラモン教から生まれた言葉で、最初は「お祈りの言葉」を意味していたのですが、そこから
「宇宙の本質」という哲学的な概念に変化していったと言われています。実際バラモン教の「バラモン」という言葉も、日本では「婆羅門」などと漢字で表記したりするのですが、本来のサンスクリット語ではBrahmana(ブラーフマナ)と表記し、「ブラフマンに属する(もの)」という意味を持っています。インドでの発音は少ししか違わないのに、漢字にすると「梵」と「婆羅門」の違いになってしまうんですね。


さらに余談になってしまいますが、サンスクリット語などの古代インド語は、知らず知らずのうちに漢字に置き換えられて使われていることが多く、例えば般若心経の冒頭にある「摩訶般若波羅蜜多(まかはんにゃはらみた)」というくだりも、本来はすべてサンスクリット語(訛り)で「Maha Panna Paramita(マハー・パンニャー・パーラミター)」という発音が、中国で漢字に置き換えられてから日本に輸入されたものなのです。摩訶不思議の摩訶も、サンスクリット語なんですね。

このまま音写の話しを続けると、それだけで今月のコラムが果ててしまいそうなので、話しを「梵」に戻すことにしましょう。


上記のように、この「梵」は小難しく表現すると「宇宙の本質的な存在」という意味になるのですが、もう少し分かりやすく、というよりは詳しく言いますと「梵とは、この宇宙のあらゆる存在の素となる素材であり、現象を引き起こす動力源である」ということになります。


少しメルヘンチックな喩えになりますが、この宇宙を色とりどりの粘土で作り上げた粘土細工のようなものであるとイメージしてみましょう。その世界には、木や水や動物など、様々な個体が存在しているかのように見えますが、それらの素材を調べてみるとすべて粘土だったという感じです。この複雑な宇宙も、たった一種類の素材でできている。。さらにインド哲学では、この粘土細工の世界は、誰かが外側から作ったのではなく、自らが変化する力でもって作られている、と続けます。

少しグロテスクな喩えになりますが、先ほどまで粘土細工と思っていたものは、実は一匹のアメーバであって、自らが形を変えながら部分的に木になったり水になったり、様々な生き物になったりしているというイメージです。「梵」とは、このアメーバのようなものなのです。あくまでもイメージの世界ではありますが、「梵とは、この宇宙のあらゆる存在の素となる素材であり、現象を引き起こす動力源である」のニュアンスは受け取っていただけたかと思います。あるいは、逆に理解が阻害されたでしょうか。。。反省。。


このあたりから「自然の摂理」と結びつけていきましょう。

冒頭のお話しを振り返ります。

私たちが生きているこの自然界、もう少し大袈裟に言えばこの宇宙には、人智の及ばない、とても精妙な法則、律、ルール、換言すると「自然の摂理」が存在し、私たちはそのルールに従って病気になったり治ったり、私たち以外にも様々なものが存在し、変化したり動いたりしています。


目に見えない、何かしらの精妙な力が作用して、あらゆる営みが行われている。その力を生み出すものを、科学では「エネルギー」と呼び、インドでは「プラーナ」と呼び、中国では「氣」と呼んでいます。これは前々回のテーマでした。

この、あらゆる現象を引き起こす動力源がプラーナであり、これが「梵」の一要素、動きの要素になっています。

梵と氣(プラーナ)はとても近い存在ですが、イコールではありません。氣は梵の一部です。先ほどのアメーバの喩えで言えば、アメーバがモゾモゾと動く力はアメーバそのものではりません。動く力はアメーバの能力であり、一要素です。同じように、氣は梵の能力であり、一要素なのです。

アメーバが動かなくなったらアメーバはなくなるのか。そうではなく、アメーバは動かなくなってもアメーバです。氣が動かなくとも梵は存在するのです。


梵とは、この宇宙の動力源であると同時に、素材でもあるのです。

ではその素材って何かと申しますと。。色々な言い方ができますが、私は「意識」という言い方をしています。

つまり、そもそもこの宇宙には「意識」というアメーバのような素材があり、その意識が、あーしたいとかこーしたくないとかという衝動で動き回る、これがプラーナの本質。そして、その動き回るパターンというか、一定の律とか法則とか言われるものがあり、これが「自然の摂理」というわけで、これがインド哲学、とりわけ一元論といわれる哲学の概要なのです。

さてさて、まだまだ梵についてのお話しは尽きるはずもないのですが、コラムの適度な長さが迫ってきたために、そろそろまとめに入らねばなりません。

なぜこの難解な「梵」の話しを理解しなければならないのか。

結論。

理解する必要はまったくありません。

ただ、単刀直入に言い切ってしまうと、「梵」への理解と実感を深めることこそが、ヨーガを深めることそのものであるとも言えるのです。だから、理解しようと思わなくとも、ヨーガを実践し、深めていけば自然と理解につながってきます。

逆に、理解だけして実感に結びつかなければ、何の役にもたたない取り組みになるとも言えます。

「梵」への理解が、「自分」に対する捉え方を変化させ、「いかに生きるべきか」に生かすことができるようになる。このとき知識はまさに「生きる智慧」となり、私たちを助けます。

と一段落しそうなこのテーマですが、さらに次月へと続いていくのでした。。。


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