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綿本ヨーガスタジオ提供 YOGA.jp - ヨガ・瞑想を知るホームページ

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ヨーガと神

 

暮らしの中のヨガ哲学

本当におかしな天気が続き、異常気象を伝えるニュースが絶えませんが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

私の方はと言いますと、フェスタとトレーニング後期の谷間という、非常に素敵な状態に身を置いておりまして、相変わらずヨギらしくない濃密生活を送ってしまっております(苦笑)。

そのフェスタですが、今回で第4回を迎え、私自身4つのクラスを担当させていただいたのですが、どのクラスも本当に素晴らしい時間と実感を参加者の皆様と共有することができたように感じています。この場をお借りして、改めて皆様に御礼申し上げます!



さて、本題です。

先月までのコラムの評判を方々から耳にしておりまして、「徐々に難しくなってきた」「もはや読む気がしないほどややこしい」などとお伺いする中で、これではいかんと反省すると同時に、いかにインド哲学が私たちの「常識」から程遠く、理解しがたい代物であるかを実感していただけたのではないかと思っております。



今回はその流れの一つの結論として、方便としての「神」の誕生について書き進めたいと思います。

皆さんは「神」という言葉を聞いて、どういった印象を持たれますか?


何か具体的に宗教をお持ちの方は、その頂点としての「神」を思い描かれると思いますが、逆に無宗教、反宗教の方は「神」なんていないよ、という思いから、何となくその言葉に対する嫌悪感を持たれる方もいらっしゃると思います。このように、様々な価値観をお持ちの方がいらっしゃるという事実をふまえ、私は普段「神」という言葉を安易に使わないように心がけています。


私の場合、実を言いますと無宗教な人間でして、特定の宗教団体に加盟することも信仰することもなく、ヨーガと関連の深いヒンドゥーの神々を崇拝したりすることもありません。もちろん宗教団体を創ったり、教祖になるつもりもありません。設立を勧めないでくださいね(笑)。


さて、ここで話は一度 前回のテーマ「梵」に戻ります。

この宇宙に存在する精妙な律、摂理。そのルールに従って、原子が振る舞い、脳神経が伝達され、風が吹き、雨が降り、そして地球が回っています。そのあらゆる現象を引き起こしている原因のことを、インド哲学は「梵」と呼んでいます。あらゆる存在や現象を引き起こす根源的な力、エネルギー、そして素となる原材料。その「梵」を理解し、実感していくことが、インド哲学の主題なのです。

ただ、それは何千年も昔のインドでは、上流階級のほんの一握りの人々にしか理解し得ないものでした。十分な教育を受け、十分な理解力と思考力を備え、十分な時間をかけてその探求に没頭できる立場の人たち。。私たちが21世紀の学力、理解力をもってしても数年、あるいは十数年かかるような難解なテーマに、紀元前後の多くの人々にどうして理解することができるでしょうか。

そこで誕生したのが「人格神」という方便でした。


本来「梵」とは姿形を持ちません。それは、あらゆる現象を引き起こすエネルギーであり、何かを認識するという意識作用であるからです。ただそんなものは実感どころか理解することさえ難しく、前月までのコラムのように、多くの人の興味を失うことにもなりかねません。


そこで、その「梵」に手足を与え、端正な顔立ちを与えて、私たち人間とそっくりな外観を持たせ、彫刻や絵などでそれを具現化する取り組みが始まったのです。

その上で、その神を指して、例えば「この神が全宇宙を創造した」「私たちはすべて神の子です」「神の前では私たちはすべて平等です」「神への感謝と畏怖の心を持ち、すべてを捧げて生きましょう」と表現することで、「梵」の概念をすべてその具現化した偶像の背後に押し込めてしまったのです。


この方便に恐らく嘘は見当たりません。ただ唯一紛らわしいのは、「梵」という存在を、人の形に押し込めて多くの人に実感しやすいように目の前に登場させたことでしょうか。

「梵」があらゆる現象を引き起こす原因であるからして、例えば雷や洪水などの自然現象や天災も、「梵」が引き起こしているといえるのです。またその「梵」を役割分担して、雷を司るのは○○神、洪水は○○神というように、神々を増やして分業することでより身近に具体的に、その存在を感じることができるようになるわけです。


また、私たち人間という存在も、神の子という表現をとることですべて平等になり、互いを思いやり、利己的な生き方から脱却するよう示唆することも可能になるわけです。

瞑想によって「梵」を実感し、その実感から私たちがすべて対等であるということを実感し、その実感を抱きながら生きていくという、直接的だけど難解な取り組みよりも、「神」を登場させることではるかにシンプルに、その哲学を感覚的に理解することが可能になるわけです。

こういった流れから生まれたのが「バクティヨーガ」、献身のヨーガです。

小難しいヨーガスートラを理解しようとしたり、ひたすら瞑想を繰り返してその実感を得ようとしたりする取り組みから離れ、ヒンドゥーの神々、とりわけヴィシュヌ神やその化身であるクリシュナ神に対する信仰を通して、ヨーガが目指す実感を深めていこうとする動きが強まったのです。神に対して祈り、帰依するだけでヨーガが深まる。その考え方は、とりわけ吟遊詩「バガバッドギーター」などで語り継がれ、多くの民衆に広まったのでした。


時は過ぎ21世紀。

先月までのコラムを読まれた方はいかがでしたか?

もういい加減哲学にはアレルギーが出てきた。読めども読めどもアーサナと瞑想と哲学の関係が一向に分からない。。。

だからこそ現代においても、「神」というイメージを上手に使いながら、哲学への理解を感覚的に深めたり、実感を深めたりすることも、一つの選択肢としてとても有効であると私は思っています。

とは言え、冒頭にも触れましたように、多くの価値観の方々がいる中で、いきなり「神」という言葉を使うと、その時点で拒絶反応を起こす方もいらっしゃるという配慮から、私はあまり「神」という言葉を使わないように心がけてはいます。そして「神」という言葉やイメージを使わないで、その難解な哲学を理解していただけるよう、その実感を深めていただけるよう、その道筋を模索し続けております。

といいますが、多くの人からすれば、綿本も「梵」教の信者ということになるのでしょうが。。汗。。


さておき。

「神」はとても素晴らしい概念だと思います。ただそれは、多くの人のイメージを名前や姿形に限定してしまう危険性をも含んでいて、そのことが、他の宗派の「神」や考えを否定することになる危険性を含んでいることだけ、最後に加えておきたいと思います。


自分を認め、相手を認める。


それでは、私も神頼みせずに、トレーニングの最終準備に取り掛かりたいと思います。


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