本文の開始

綿本ヨーガスタジオ提供 YOGA.jp - ヨガ・瞑想を知るホームページ

綿本彰によるヨガ解説・瞑想解説。メディテーション、マインドフルネス、ヨガ哲学、インド哲学、理論解説、用語解説、無料情報提供ページです。

方便としての二元論

 

暮らしの中のヨガ哲学

冬の足音がもうすぐそこまで近づいて来ています。とりわけ朝夕に冷え込む日が続きますが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

私の方はと言いますと、200時間の指導者トレーニングを終え、かなり気が緩みつつも、目前に控える新刊の締め切りに、気持ちの建て直しをはからねばと思いながら、相変わらず日々PCと睨めっこをしています。今回のトレーニングは、私にとってはじめての合宿形式だったのですが、合宿でしか築けない受講生同士の深い結びつきが生まれ、その結果としてYogaが目指す「瞑想的に生きる感覚」を全員で共有することができたように思っています。とは言え、合宿参加できない方も多いと思いますので、来年は通学形式かなと思いつつ、なかなかスケジュールを組めずにいる今日この頃です。。


さてさて、今月はできるだけ柔らかい話題をと思いつつ、難しそうなタイトルになってしまいました。前回までがかなり難解だったため、極力やさしい内容にしていこうと思っていたのですが、難しかったらすみません。。。

二元論。

この言葉だけで引かないでくださいね。この二元論は、ヨーガ界のバイブル「ヨーガスートラ」を理解する上で欠かせない理論なのですが、完全な私見で言い切ってしまいますと「二元論は方便である」と私は思っています。つまり私は、ヨーガスートラをバイブルとしつつも、最終的に一元論を支持している人なのです。


簡単に復習しますと、一元論とは「この宇宙に存在するあらゆるもの、あらゆる現象は、たった一種類のエネルギーから生じている」という考え方。(詳しくはコラムVol.8~11をお読みください)そもそもインドでは、古くからこの一元論が哲学の中心にありました。この宇宙はたった一つの概念、エネルギーから生じている。その根源的な概念のことを、インドでは梵=ブラフマン(Brahman)と呼んでいました。これが一元論の主題です。ただ、この理論を断固として認めず、完全否定する思想家たちがいたのです。人の本質を含め、あらゆるものを一元的に捉え、すべてがブラフマンという概念から生じているという考え方にアレルギーを示す人たち。この人たちの考えや思いを理解するには、当時のインドにおけるブラフマンの位置付けと、カースト制度についてお話する必要があります。


カースト制度とは、今もなおインドに存在する階級制度のこと。最上階級がバラモン(僧侶、司祭)、そして順にクシャトリア(王族、貴族)、ヴァイシャ=(商人、平民)、シュードラ=(隷民、インド先住民)という身分を設けている差別制度です。カーストは世襲制度で、親から子へと引き継がれ、一生を通して、全世代を通して変わることがなく、就ける職業や人としての扱われ方そのものに差別が存在しています。

ここで注目したいのが、社会全体の支配階級であるバラモン階級です。何度かご紹介しているのですが、これはカタカナ表記するとバラモン、漢字では婆羅門なのですが、サンスクリットではブラーフマナ(Brahmana)と発音し、ブラフマン(Brahman)に属する(仕える)者、(祭儀を通して)コンタクトできる者という意味を持っています。

ここまで書くと、なぜ一元論を否定したくなる人が存在するか、理解できた方も多いと思います。


一元論は、当時のインドではブラフマンに仕えるバラモン(ブラーフマナ)を頂点に、差別制度を支える揺るぎない哲学として君臨していたわけです。つまり、一元論そのものが正しい、正しくない以前に、その枠組みがカースト制度によって作り出す差別社会そのもののバックボーンとなっていたのです。カースト制度とは無縁な私たちは、一元論を純粋に一つの学問、哲学として捉えることができますが、とりわけ差別される側の人からすれば、ブラフマンを至上とする哲学はカースト制度の土壌であり、差別の象徴であり、否定すべき対象以外の何者でもないわけなのです。

低いカーストに生まれてきた以上、どう頑張っても差別から逃れられないバラモン至上社会の中で、それでもどうにかしてそこから逃れ、心安らかな状態に至りたい。心の働きを停止させ、あらゆる現実から遮断された境地の中で、きっとその腐りきった社会とは完全に切り離された、純粋な状態に至れるはずである。

二元論は、そんなカースト社会から、希望的な方便として誕生したものである。私は勝手にそう思っています。


私たちが見聞きするこの世界をすべて汚れたものとし、その世界とは完全に切り離された、純粋な精神性が存在し、それこそが自分の本質である。腐りきった社会から遠く離れたところ、そんな世界とは完全に相容れない存在として、純粋な自分、本当の自分が存在するはずである。

そして、心の働きを完全に停止したときに、その状態に戻ることができる。汚れきった泥の中から美しい花を咲かせる蓮華のように、この腐りきった世界に根を張りながらも、鍛錬を重ねることで、俗世から完全に離れたところに存在する真の自分に到達できるはずである。完全なる現世の否定。

つまりカースト社会に対する完全な否定から、二元論という方便が生み出されたんだと私は思っています。実際、時を同じくして、仏教を始めとする非バラモン的な思想が紀元前後のインドに横行し、ヒンドゥー教としての再生を余儀なくされるほどにバラモン教を追い込んでいったのは紛れもない事実です。


このように、ブラフマンを主軸とする一元論を否定しつつも、バラモン教、後のヒンドゥー教に弾圧されることなく、ヨーガが今もなおインドで愛好されるに至ったのは、後にヨーガが一元論の枠組みに吸収され、ヒンドゥー教との共存をはかり、保護されていったからに他なりません。この話しはいつかまた詳しくご紹介するとしましょう。


いずれにしても、一元論という考え方は、純粋な哲学としての立場を越え、宗教的、あるいは政治的なしがらみを含んでいるがゆえに、二元論という反発を招き、また融合をはかり、ヨーガ哲学の理解をややこしくしているのかも知れません。ですから私たちは、こういった哲学以外の要素も含め、より広い視野でこれらの哲学を理解していく必要があると言えるのではないでしょうか。

そして同時に、一元論が正しいのか、それとも二元論が正しいのか。

その究極の結論よりも、本当に大切なのは、真実がどちらであったとしても、そのどちらを選ぼうとも、それらが人生を豊かにするものであって欲しいと願う今日この頃。


皆さんはこの問題、どうお感じになりますでしょうか?


ページの終了