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心の働きの止滅

 

暮らしの中のヨガ哲学

すっかりと冬の寒さに包み込まれた日本列島ですが、気を抜くと本当に風邪を引いてしまいそうですね。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

私の方は、新しい瞑想本の原稿をひとまず書き終え、ブラッシュアップの毎日に明け暮れています。今回の本は、前作である『Yogaではじめる瞑想入門』をより噛み砕き、瞑想やYogaをまったく知らない方でも、その何たるかを実感していただけるようなものを目指して制作しています。内容は前作にかなり似ているのですが、よりとっつきやすく、そして実はよりディープなものになっています。年内は難しいかも知れませんが、年明けにはリリースできると思いますので、ぜひご期待いただければと思います。


さて、かなり宣伝になってしまい失礼しました。

今月のテーマですが、ヨーガスートラの主題である「心の働きの止滅」をテーマに、ラージャヨーガの本質に迫っていきたいと思います。


心の働きを消滅させること。


ヨーガスートラを既にお読みの方は、これがその主題であることをご存知かと思いますが、まだお読みでない方は、何を突拍子もないことをと思われるかも知れません。

なんでわざわざ心の働きを止めなきゃいけないのか。

その理由をご理解いただくためにも、改めてインド哲学の本質を振り返りましょう。


これまでも繰り返し触れてきたことではあるのですが、インド哲学では、それが一元論であろうが、二元論であろうが、私たちが通常”自分”だと思っているもの、すなわち皮膚の内側の世界は、本質的な意味で”自分”ではないと教えます。


つまり、自分の身体や自分の脳みそ、思考、心の働きなどは、本当の”自分”ではなく、これらを”自分”なんだと思う錯覚や無知などから、日常的に様々な苦痛が生じると教えています。


つまり、この錯覚があるが故に、皮膚の内側である「自己」と、皮膚の外側である「他者」を分離して捉えてしまい、この分離感があらゆる苦痛を引き起こしてしまうと考えるのです。

確かに、考えうる限りの苦痛は、エゴイズム、つまり自分が自分がという感覚から生じていることからも、皮膚の内側のメリットや快楽に固執することが、苦痛の芽であることは何となく理解できます。


ただ、それにしてもその前提として、それまで当たり前に”自分”だと思っていたものに対して、本当はそれって”自分”ではないんですよ、と言われても、ハイそうですよねといって手放しで受け入れるには、あまりに突拍子なさすぎる理論であることも事実。

だからヨーガでは、この考えを理屈で押し切ろうとしないのです。


どうせ信じないだろうから、どうせ頭では理解できないだろうから、実際に心の働きを止めてみなさいよと、やや挑戦的に突き放してしまうのです。


一度、心の働きを止めてみるがいい。


そういって自分で体験、実感することをすすめるわけです。

そして実際、あの手この手を使って心の働きを止めてみたら、それでもなお確かに存在する”自分”が存在するわけです。感覚や言葉や心の働きを越えて、ただ純粋に何かを”意識する”という機能だけの存在。

この実感を追及することが、ラージャヨーガの真髄、ヨーガスートラの目指す境地なのです。


ところが、ここで疑問を抱く方が大勢いるかと思います。

で、心の働きが止滅したら、そのまま生活したりするの?


いえ、心の働きを止めたまま生活なんてできません。

食欲なしで生きていくこともできません。


ただ「心の働きの止滅」という体験を通して獲得した智慧、実感、視点をもって、あらゆるものを見守る純粋な意識で生きていくことはできるはずです。

その視点から、自分を含めたあらゆるものをフラットに捉え、ここから内側が自分でここから外側がそれ以外、という線引きなくして生きていくことはできると思っています。

もちろん私はまだその域に達していませんが、少なくとも皆さんがそうであるように、深いYogaの実践の後、自と他の境界が薄れたとても大らかな状態をしばらく続けることはできます。


このように、「心の働きの止滅」と聞くと、何となく遠ざけたくなるような印象を持ってしまいがちなスートラの終着駅も、実生活と結びつけて捉えると、とてもハートフルな、そして極めて一元論と近い結論を導くことができる。

あくまでも私の解釈ですが、そんな理屈で一元論と二元論を結びつけて捉えています。


いずれにしても実践あるのみ。


共にプラクティスしていきましょう!!


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